昭和42年8月21日 朝の御理解
神は吾が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じ事である。神はわが本体の親、信心は親に孝行するも同じこと、そういう信心が本当に分からせて頂くと有難いと思う。確かに神は吾が本体の親であり、してみれば、信心はその親に孝行する様なものである。そういう信心が分からせて貰うところに、信心も狂いもこなければ、又迷いも起こらない。
親ですから子供が悪いように、子供のことなんか構わんとか、知らんとかと云う親がある筈がないのですから、どのような場合でも、どの様な時でもそこに焦点を置いたらすぐ分かる筈である。
親がやかましく、口やかましゅう、親に抵抗する。反抗する。けれども、よくよく考えてみたら、その親の感情だけでなく本当にこの子供がこんな風じゃあいけんと思うから、口うるさくも言やあ又叱りもするのである。親なればこそなの、信心もそこんところを分からせて貰うと、おかげを受けたとか受けなかったとか、誰が何とか言ったとか言われたとかと云った様なことで信心に迷いが起こる筈がなからなければ、狂いが起こってくる筈もない。お互いそういう信心を一つを目指さなければいけませんけれど、やはり、一つの信心にはそれぞれ過程がある。そういう事がある。分からない。だから例えば、親でも親でないと子供が言うたらそれまでのこと。如何に神様がここにおられましても、その神様は自分は知らんと、そんな親があること自分は知らんと言うたらそれまでですけど、それでやはり親子の情を持っての信心の交流がなからなければ、そうしたおかげも頂けないと云うことになる。
教祖の神様の御理解の中には、言葉はちょっと違いますけど、何と云うかね、日傭取とか忙しいうとい時に毎日神様にお参りすることは出来んと仰る。だから暇の時にしっかり信心の稽古をしとけよと仰る御理解がございます。
これなんかは信心の初歩の方達と云うかね、まあ難しくない信心ですね。自分の暇の時に一生懸命信心の稽古をしておる。忙しい時にはお参りが出来んのだから、日傭取りと云うのはそんなにやはり、仕事のほうのことを中心にしなければ、そうそう神様にお参りばっかりも出来んのだから、その通りにしっかり暇な時に信心のけいこをしっかりしとけよと仰るねえ。ですから、ここんところを分かると云うのですけれども、そこんところでも何かお願い事でもなからなければ参らないとか云う、それはまったく信心の程度が低くなりますね。暇な時にしっかり信心の稽古をしておけと。
先日のお湿りの日に北野からお参りして来た方がある。なかなか百姓は忙しくてから、天気のよかけりゃあお参り出来んから、今日なっとんお参りしようじゃないと云うて姉妹揃うているから、姉妹揃ってお参りして、姉さんと妹さんと参って来られて心行くまでお参りをされる、もう心行くまで御理解を頂いて帰られる。信心の何とも言えん信心の有難いものを感じますよね。日頃忙しくてお参り出来ません。お月次祭には度々やっぱりお参りになります。その皆さんのように日参り、夜参りが出来ません。それでお暇の時くらいは一つ心ゆっくり、けそけそせずに今日ゆっくり御理解でも頂いて御祈念もゆっくり心ゆくまでさせて頂いてお参りさせて頂こうと云うのである。そういうようにですね、暇の時に、そういう様に本気でお参りが出来るような信心ならおかげを受けますよね。確かにおかげを受けます。
ところが暇な時にゃあ、物見であり遊山であり、いや内で寝てたり転んだりしておるのである。さあ何か起こってくると火がついたようにお参りして來る。それなんかは、私は信心の心掛けをちっと代えなければいけないと思う。そういう一心を出すればと仰るのですから、そういう風に一心にお参りして来ておかげを受けるに致しましても、信心の潤いと云うものがない。信心の有難さというものがない。
先日田主丸の高芝さん、東京に行っておられました。それであちらへ息子さん行っておられますから、そちらへ寄られました。ちょっとした問題が息子さんのところにございましたからその問題を解決しなければ帰られんので、それで大祭があるので気が気ではないけれど、御大祭に間に合うか間に合わないかすれすれのところになる。息子さんの問題が片付いて息子さんも田主丸に引き上げて來ることになってきた。あちらへ自動車を持っておられますから自動車で親子で帰ってみえたわけです。もう発たれる時にも電報を打たれ途中からも只今御本部に着きましたけれども、どんなに急ぎましてもお祭りに間に合わず、お祭りの夜しか着きませんと云う電報が参りました。実はここで高芝さんのお母さんがお届けさせて頂かれるのに、実はその息子の関係で飛行機の切符が手に入った。おかあさん飛行機で帰りゃ大祭に間に合うから飛行機で帰りなさい、そう云うてくれましたけれど、いやあ私あもうあんたの自動車にぶら下がってもあんたの自動車に乗って帰るばい言うて、孝の車に乗って帰ったとこういうお届けしよってから、私は思うんですね、皆さんどういう風に思われますか。息子が一人で東京から帰って來るのですから、やはり側に乗っておってから、話相手になってやりたい。又居眠りすることのないように親心として、車にあんたの車にぶら下がっても乗って帰ってくるよ。何とも言えん親心の情でもありますね。けれども折角その自動車じゃあない、飛行機の切符が手に入れられる。何か云うなら、ただで切符が貰えるといったようなことであったんです。だから、お母さんこれで帰ると御大祭に間に合うけどと息子は云うてくれたんですけれど、私はこう申しました。どちらが良いとも言われんですね。子供を思う親の心ですから、子供と一緒に、あんたが邪魔になるちゃあ、あんたの車でぶら下がっても帰るばいとこう云うて帰りました。ところが、ここんところが私は段々ほんとの事が分からなければいけないと云うことは、ちょっと焦点がづれている感じがいたしますね。これはもう、云うならば今日私が云う神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞやと云うような、信心が身に付いてきたらそこに自ずから焦点と云うものがはっきり出て來る筈です。お繰合わせを頂いて有難いこつと云うときに、しかもただで飛行機の切符が入ってくることは何と有難い。あんたを一人東京から田主丸までもやるのは心もとないけれども、その事は神様にお母さんお願いしとくから、私は一足先に飛行機でやらせて頂くよ。そすと御大祭に充分間に合う。前日の御用も出来る。だからあんた一人淋しいかばってん、お母さん一足先に帰らせて頂くよ。いうことにこれは、云うなら非常に難しい信心ですね。普通の人情論から云うならば、高芝さんが先にお届けされたように私しゃあんたの車にぶら下がっても乗ってくるよと云うのが、これがまあ普通なの。けれども、信心が段々もっと高度のことになってくると、親を中心、親神、神様を中心ということになってくると、あんたのことは神様にお願いしてという事になる。
お母さんがしっかり神様にお願いしとくけん、途中で御本部にもお参りしておいでよ。あんたのことは無事に帰ることをお願いしとくから、お母さんは御大祭に間に合うよう飛行機で一足先に帰らせて頂くよと云うところになってくると、これは神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞやと云うような信心が分かってくると、これは十年二十年三十年信心しとっても、なかなかそこんところが分からん。けれどここんところが分かってくるようにならんと、いわゆる信心の妙と云うものは頂かれません。
信心の味わい、おかげの味わいは、いいですか。けたたましゅうお願い致しますと云うて参って来ても、おかげ受けるのですから、おかげの味わいは分かりますねえ。それから段々信心が進んでほんなら日参り、夜参りが出来ませんからせめて雨の日くらいは心ゆっくりお参りでもさせて頂いて、み教えを頂こう、御理解を頂かせて貰おう。さあ今日は雨降りだから姉さん一緒にお参りしようやと云うて姉妹いっち揃うてお参りをして来てお広前にゆっくり心ゆくまで御祈念させて貰えれる。こういう信心になってくると、信心に潤いが段々妙とまではゆかんでも、信心の潤いと云うものを感じる。そういうところから初めから誰でも師匠はおりません。はじめから、いわゆる教えもありませんようにそういうところから、信心が段々分かって行く。信心の成長が段々流れて來る。云うならば信心が分かって來る。
なるほど神はわが本体の親であると云うことが分かってくる。しかも信心は親に孝行するも同じ事だと云うことが有難い。そこに親に孝行するも同じことと云うような信心ならば、何時の場合でもどんな場合でも神様中心にしたところの自分の動きというものがそうなってくる。
神を中心としたところの信心、又は自分を中心としたところの信心、ね、又はおかげを中心としたところの信心。今日はそういうとこを申しました、ね。だからおかげだけを目当ての信心、いや信心の味わいを分かりたい。いわゆる信心を中心、自分を中心におかげを中心にそして、神様を中心と云うように信心がそれをそうしなければならんと云うのじゃあ決してありません。そうしなければならんと云うと、信心が非常に難しい、侘しいものになってくる。問題は信心が分からにゃいかんと云うことである。分かれば自ずとそうさせて頂くことは有難いことになってくる。そういう信心をそれぞれの段階に於て体得して貰える。
そしていよいよ教えを頂かせて頂くうちに、この神様のおかげを頂かなければ私共が立ち行かないと云うこと。この神様のおかげをみんな、誰だって信心があろうが無かろうが頂いておると云うこと。生きても死んでも、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かないと云うこと。しかもその神様は氏子私ども親と子と云う関係をもって、いわば成り立って行くところの信心。その親神様を中心としたところの信心生活、そこに親と子の交流と云うか、そこになって参ります時に、よしそれは難儀な事になりましても、その難儀の中に神様の深い心を知ること・・・・途中切れ